多摩市在住のパラリンピアン・東京2020パラリンピック 5人制サッカー(ブラインドサッカー)日本代表、黒田 智成選手
東京2020パラリンピック競技大会が無事閉幕した。
パラリンピック初出場となったブラインドサッカー男子日本代表は、世界ランキング上位のフランスやスペインを倒し、堂々の5位入賞を果たした。
中でも多摩市在住の黒田 智成選手は大会期間中3得点をあげ、日本の勝利に大いに貢献したことは、記憶に新しい。
今回は2002年からブラインドサッカー男子日本代表として活躍する、黒田 智成選手にお話しを伺った。
ブラインドサッカーとの出会い
黒田 智成 選手は熊本県八代市出身、1978年生まれの43歳。地元、熊本県立盲学校から久留米大学、筑波大学、筑波大学大学院を経て、卒業後の2004年からは社会科の教員として、東京都立八王子盲学校に勤めている。
生後3か月の時に小児がんの影響で左目を失った黒田選手は、小学校1年生の時に全盲となった。小学校に入学するまではわずかに残っていた右目の視力で、大好きなアニメ「キャプテン翼」をテレビ画面に顔をくっつけながら観ていたというほど、サッカーが大好きな少年だったという。しかし、当時の日本には視覚障がい者がプレーできるサッカーがなかったことから、ずっとサッカーをやってみたいと思いながらもそれが叶わず、他の様々なスポーツを経験してきた。
そんな黒田選手がブラインドサッカーを初めて体験したのが筑波大学大学院在学中の2002年のこと。関東で初となるブラインドサッカーの講習会が横浜で開かれることを知り、駆けつけたという。
「23歳になって、ようやく自分ができるサッカーに出会えた!という喜びが一番にありました。実際にやってみると、目が見えない状態で、足でボールを扱うことはすごく難しいことでした。しかし、ブラインドサッカーのルールでは自由にピッチを動き回ることができるというのを感じて、その自由さに一度で魅了されてしまいました」とブラインドサッカーに初めて触れたときの感想を振りかえった。
翌年の2003年には、多摩センターの三越多摩センター店(現・ココリア多摩センター)の屋上にあるフットサル場で「第1回日本視覚障がい者サッカー選手権」が開催。黒田選手は当時、つくばのチームに所属し同大会に出場した。「つくばから頑張って多摩センターに行きましたけど、その時はまさか、自分が多摩市に住むようになるとは思いませんでした」と笑顔で話した。
ピッチの中は音で溢れている
ブラインドサッカー(B1クラス)は、フットサルをもとにルールが考案された5人制サッカーだ。フィールド内にはアイマスクを着用した4人のフィールドプレーヤーと、晴眼者もしくは弱視者が務めるゴールキーパーを合わせた5人がプレーする。さらに、相手チームのゴール裏にガイドと、自陣のサイドフェンス外側にいる監督が選手に指示を出すなど、お互いに声を出し合いながらコミュニケーションをとっている。ボールは転がると音が鳴る仕組みになっていて、相手選手は必ず『ボイ』という声を出さなければならないため、フィールドプレーヤーは、様々な声や音、足音などを頼りに相手の位置を把握しながらプレーしているという。
「無意識に、その時その時で必要な音を聞き分けながらプレーしています。ゴール裏のガイドが、ゴールまでの距離やディフェンスの枚数、角度だとかの指示を出していたり、監督はピッチの外から、ゴールキーパーは後ろから指示しています。選手同士も声を出すし、相手選手も「ボイ」と声を出しています。なので、ピッチの中は音で溢れているんです。その中で、必要な音を選択して聞き分けながら、プレーしています。例えば、ドリブルしている時はボールの音は聞いてなくて、それよりも相手の位置やゴール裏のガイドの声を聞きながらプレーしている感じです」と話す。
先日行われた東京2020パラリンピック競技大会、ブラインドサッカー男子5位-6位決定戦では、ブラインドサッカー発祥の国、強豪スペインを相手に1対0で勝利。黒田選手が前半終了間際、コーナーキックから浮き球のパスにワンタッチで合わせ、決勝点となる見事なダイレクトシュートを決めた。
黒田選手は「パラリンピックに向けてセットプレーを練習していく中で、どうしても点が獲りたい場面に、全員で点を獲りにいくという攻撃の形は練習していました。あのシーンは、ファーに浮き球を入れてくるだろうなという予測を持ってポジションにつきました。浮き球のパスにピンポイントで合わせるのは、すごく難しくて、あそこまで綺麗に決まったことはなかなか無かったので、プレーヤー全員のイメージがピタリとシンクロして、自分たちでもびっくりするようなゴールが生まれたのが本当に嬉しかったです」と、印象的な場面を振り返った。
「たまハッサーズ」と今後目指すところ
黒田選手は、2004年に都立八王子盲学校に着任後、多摩地域ではまだ珍しかったブラインドサッカーのチーム「たまハッサーズ」を2005年に結成。16年以上に渡ってブラインドサッカーを牽引し続けている。パラリンピックのブラインドサッカー男子日本代表には、たまハッサーズから、黒田選手をはじめ、日向 賢選手、田中 章仁選手、佐藤 大介選手の4選手が出場した。
「まずは一緒にブラインドサッカーを楽しみたいという仲間が集まりました。見ていても、やっていても楽しいブラインドサッカーの可能性を追求していこうと、いろいろな練習を取り入れながら、様々な戦術を日々練習しています。その中で、ゴールキーパーを含めて4名の代表選手が出場できたのはチームとしても嬉しいことでした」と話した。
ブラインドサッカーがパラリンピックの正式競技として採用されたのは2004年のアテネ大会から。黒田選手はアテネ大会から北京大会(2008年)、ロンドン大会(2012年)、リオ大会(2016年)と、本戦出場を目指してアジア予選を戦って来たものの、あと一歩が届かず、何度も出場を逃した上で、やっとたどり着いたのが今回の東京大会だった。
「私にとっては夢の舞台にようやく立てたというような大会でした。これまで、一から日本のブラインドサッカーを作り上げてきた方々や、ブラインドサッカーを育ててきた多くの方々の想いを私はよく知っているので、みなさんの努力に恩返しするというか、一つの形にしたいという思いでこの大会に出場しました。その上で、フランス戦とスペイン戦で勝利を上げることができて、これまでの日本のブラインドサッカーに関わってくれた人たちに対する感謝の気持ちを伝えることができたと思います。メダルを獲れなかったという意味ではすごく悔しい結果ではありましたが、多くの方々にブラインドサッカーの魅力を知っていただく機会にもなりましたし、これまで自分たちが積み上げてきたものは、出し切ったという手応えを感じることができたので、そういう意味では、満足の行く戦いができたと思っています」と振り返った。
3年後の2024年にはパラリンピックパリ大会が控えている。黒田選手は「次のパリ大会に向けて、これまで色々なことを経験してきたベテランの選手たちが、その経験を若い世代に伝えていって、日本の技術レベルをさらに上げていくことが必要です。自分もプレーをしながら、次世代に経験を伝えていくことが役割かなと感じています」と今後の目標についても語った。
パラリンピック初出場で5位入賞という成績は、ブラインドサッカー男子日本代表にとっても、黒田選手にとっても、大きな一歩となる経験となった。3年後のパリ大会では、さらなる飛躍を遂げるに違いない。
画像提供:日本ブラインドサッカー協会/鰐部春雄